(1)[〜衛門]と[〜兵衛]が消える
1868(明治元)年、日本は大変革を迎えます。明治維新です。明治4年4月には「戸籍法」が公布されます。平民にも名字をつけることが許され、義務化されます。明治5年には「複名禁止令(名字と名前は1つずつ)」と「改名禁止令(戸籍上の名前は変えられない)」が出されます。
そんな「戸籍法」で、男性名にも大変化が起きます。右のグラフを見てください。明治9年の西富岡村(現在の神奈川県伊勢原市)の戸籍からのものです。上は大人(15才以上)で、下は子供(14才以下)です。
戸籍に載っているのですから、原則としてその名前は一生変えることができません。
明らかな違いは、[〜門(衛門)]と[〜衛(兵衛)]という名前の人が大人にしかいないのです。どうしてそんなことが起こったのでしょう。
その理由の1つは、もともと[〜衛門][〜兵衛]という名前は、男子が元服したときにつけかえた名前なのです。大人の名前の多くは、元服後につけかえた名前でしょう。「戸籍」ができてからは、元服しても名前を変更することはできなくなりました。
もう1つの理由は、[〜門][〜衛]が禁止されたのです。「禁止された」というのは「旧名・旧官名禁止令」という布告によります。次の明治3年に出された太政官布告のことです。
「旧官人元諸大夫侍並元中大夫等ノ位階ヲ廃シ国名並旧官名ヲ以テ通称ト為スヲ禁ス」(明治3年11月19日太政官布告, 法令全書第845)
「旧名」「旧官名」とは、たとえば、宇和島藩最後の藩主「伊達宗城」は、『雲上便覧御役の部 全』(1896)には「宇和島少将宗城朝臣」と書かれています。この「宇和島」が国名、「少将」「朝臣」が官名です。それは今でいえば「◯◯会社◯◯課長」というようなものです。
実は[〜衛門]と[〜兵衛}も、もともとは官名(官職名)です。それがいつしか忘れ去られて名前に使われていたのです。地方によっては、その布告を厳格に実施したところもありました。[〜衛門][〜兵衛]という名前の人に改名させたのです。そのことについては、井戸田博史の著作に詳しく書かれています。
井戸田著(1993)「旧名・旧官名禁止令」『家族の法と歴史』(世界思想社)
井戸田(2006)「名前をめぐる政策と法ー明治前期を中心として」上野・森編『名前と社会ー名づけの家族史』(早稲田大学出版部)
ただ「改名までさせた地方」は定外的だったようです。私は、上の述べた「西富岡村」について、明治9年の「戸籍」と明治2年の「人別取調書上帳」とで200名の男性名を比較したのですが、「〜衛門][〜兵衛]を改名した例を一つも見つけることができませんでした。
(2)『名つけ帳』から明治維新以降の男子名を見る
和歌山県紀の川市の粉河(こかわ)にある王子神社には『名つけ帳』という巻物には、明治維新以降の名前も載っています。総計1550名ほどの名前のうち、明治維新から1968年まで271名の名前がわかります。その中から[郎]のつく名前を見てみましょう。
右のグラフは、男の子の名前のうち[〜郎]の変遷を見たものです。これを見ると[〜郎]は、明治維新頃は40%ほどあったのが、しだいに現象し、1960年ではグラフから消えてしまっています、
[〜郎]の代わりにどんな名前が出てきたのでしょう。
下の左のグラフを見てください。左は、「一,二,三」のような数字がつく名前(例えば[健一.健二,健三]のように)と「お(雄,男,夫)がつく名前(例えば[幸雄,幸男,幸夫]のように)の2種の名前の推移です。
もともと[〜郎]は、[〜太郎][〜次郎][〜三郎]のように生まれた順を表す(輩行名)役割を果たしていました。その[郎]が取れて「数字名」になったり、[郎]が[お]に変わったと考えられます。簡素化したのです。
下の右は、名前で使われる漢字数の推移です。時代とともに名前は短くなっていき、1900年ころからは[一字名]もグラフに現れてきます。[勇][浩]などが多数派になってくるのです。
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