[3]有名な[◯子]さんを探して
4-1明治維新と[◯子]さん
右のグラフを見てください。明治維新頃生まれの女性には〈◯子さん〉はいません。しかし、その後に〈◯子さん〉が多くなることを考えると、明治維新頃にも〈有名人の◯子さん〉〈憧れの◯子さん〉がいたのではないかと思いました。そこで、当時の新聞記事を調べて〈有名人の 当時発行された新聞を片端から探していくのは骨が折れます。そこで、◯子さん〉を突き止めることにしました。
『明治ニュース事典』全9冊(毎日コミュニケーション,1983-1986)を使うことにしました。これは「二次資料」ですから、細かな点は注意が必要です。
まず、この事典で見つけた〈◯子さん〉は、「津田梅子」(1巻p.746)と「下田歌子」(1巻p.295)です。
津田梅子は1864年(明治-4年)生まれで、明治4年に米国に派遣された女子留学生の1人です。父親の津田仙は佐倉藩主だった人で、幕府の使節団員の1人として渡米もしています。津田梅子は、帰国後に女子教育に力を尽くし、1900年には「女子英学塾(後の津田塾大学)を設立しました。
『新聞雑誌』第22号(明治四年11月)の記事には、米国に派遣された女子留学生5人の名前が載っていました。そのうち4人までが〈◯子〉でした。
下田歌子は1854年(明治 -14年)生まれで、明治初年から宮中につとめており、1886年の華族女学校の創立時から学校運営に関わり、皇族・華族の女子教育に尽力しました。1899年には「実践女学校・女子工芸学校(後の実践女子学園)の初代校長となります。
他にも明治時代の〈有名人の◯子〉さんには、次の人がいます。
若松賤子 与謝野晶子 松井須磨子 野上弥生子 宮本百合子
(明治 -4年生まれ) (明治11年生まれ) (明治19年生まれ) (明治22年生まれ) (明治32年生まれ)
↳『小公子』の訳者 ↳歌人 ↳俳優 ↳小説家 ↳小説家
この7人には、みんな〈子〉がついています。やはり明治初期から〈子〉のつく名前は一般的だった (津田梅子)
のでしょうか。
実は、この7人の本名は、すべて「〈子〉なし」です。本名は以下の通りです。
津田梅子(むめ([うめ]と読んだ) 下田歌子(せき)
若松賤子(かし) 与謝野晶子(しょう) 松井須磨子(まさ) 野上弥生子(やえ) 宮本百合子(ゆり)
やはり、こんな有名人たちも、本名には〈子〉がついていなかったのです。
それでは、どうしてこの人たちは、名前に〈子〉をつけるようになったのでしょう。
4-2 津田梅子(1864-1929)
梅子の父は、佐倉藩主、津田仙(本名,仙彌1837-1908)です。農学者洋学を学び、幕府の役人となり、アメリカにも渡っています。農学者としても有名です。
6才の「うめ」は、日本初の女子留学生として、他の4人とともに米国に出発します。その直前に、宮中へ行き皇后と面会します。米国に行くときの令書(辞令)が残っています。そこには「梅子」としっかり書かれています。また、それを報じた『新聞報知』第22号(明治四年11月)にも「梅子」としっかり書かれていたのです。
どうも宮中に入るような、高貴な女性には〈子〉が必要だったようです。
4-3 下田歌子(1854-1936)
下田歌子は、実践女子大学の創始者です。本名は「平尾せき」、父は岩村藩(現在の岐阜県恵那市岩村)の士族(50石取り)です。明治維新後、父が新政府からの仕事を引き受けたことがきっかせで、「せき」も16才で上京します。
その「せき」は、明治5年18才のとき、才能を認められて宮中に出仕します。そして歌(和歌)がうまいので、皇后に特に認められて「歌子」という名前をもらいます。〈子〉のつく名前は皇后からのものだったのです。
ここまで来て「宮中の女性(皇后の周辺の女性)には、〈子〉がつけられているのではないか」、そして「宮中の女性の名前を調べてみたい」と思いました。なにかいい方法はないでしょうか。
『官員録』という本があります。復刻も出ています(『明治初期の官員録・職員録』全6巻 1976-81 華族女学校時代32,3才の歌子
寺岡書洞)。その中から明治8(1875)年には、70人の女官名が載っていました。その中には〈◯子〉は
どのくらいいたでしょう。
下を見てください。〼は位の高い(権命婦以上)で、□は位の低い(命婦以下)です。◼︎は〈子〉のない人です。たった1人です。
明治8年 〼〼〼〼〼〼〼〼〼〼〼□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
〼〼〼〼〼〼〼〼〼〼〼□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□◼︎
その1人の〈子なし〉さん◼︎は、「伊東壽美(すみ)」という人で、翌年は「伊東澄子」になっています。
明治9年 〼〼〼〼〼〼〼〼〼〼〼□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
〼〼〼〼〼〼〼〼〼〼〼□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
以下、明治19(1886)年までをグラフにすると、右下のようになります。
やはり、女官名前には〈子〉がつくのがふつうのようです。
明治13(1880)年以降になると、しだいに女官数が増え、〈子〉のない女官も増えてきます。しかしそれは下級女官の場合で、上級女官はずっと〈子〉のつく名前の人ばかりです。その中には、大正天皇の母親になった「榊原愛子」など、天皇の側室も4,5人います。
そういえば、最近の皇族の女性名には、みんな〈子〉がついています。これは昔からのことなのでしょうか。
[問題]
歴代の皇后名には〈子〉がついているでしょうか。
ア. みな〈子〉がついている(例外の1,2名をのぞいて)
イ. 〈子〉のつかない人が半分くらい
ウ. 〈子〉のつかない人の方が多い
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