(13) 「不如帰の時代」=「子のつく女性名の時代」

13-1 不如帰の時代

  藤井淑禎著『不如帰の時代』(名古屋大学出版会1990)という本があります。その帯には「明治30年代の青年層を襲った不如帰現象」とあります。その「不如帰現象」とは『不如帰』が青年たちにつきつけた「戦争・結核・家族問題」の3つの問題のことです。日清・日露戦争が終わり「いつ戦争に駆り出されるか」「いつ結核にかかるか」という恐怖、そして「恋愛を捨てて家族のために生きなければならない」という虚無感、つまり『不如帰』の中で「主人公、川島武男は日清戦争に行き、その間に愛する妻は結核になり、それを理由に勝手に離婚させられてしまう」のです。そのように、3つの不安からなる「不如帰現象は、昭和20年代まで、5・60年間続いた」というのです。

 

 1900年からの「不如帰の時代」は同時に「子のつく女性名の時代」です。それは、ちょうど明治維新(1868年)頃に生まれた人が30才代になり、父・母になる時代です。江戸時代の慣習にしばられないで、明治世代が新しい世の中を作り始める時代なのです。そんな世代が、自分たちの子どもに[子]をつけたのです。

13-2 「大正デモクラシー」始まる

 さらに明治が終わり、大正の時代が始まる頃には「大正デモクラシー」という新しい時代が訪れていました。

 平塚らいてうは、『青鞜』という雑誌を創刊したことで有名ですが、自伝である『元祖、女性は太陽であった』上、下(1971,大月書店)の中に、明治44年ごろの日本の状況について、次にように書いています。

 それはちょうど、日露戦争、日韓併合後の時代で、世界列強の仲間入りした日本が、資本主義国家として飛躍的に発展する新しい段階をむかえて、国をあげて多事多端なときでした。

 思想界、文芸界は、戦後の国粋的保護主義の根深いものがなお厳然として力をもちながら、一方さかんにヨーロッパの近代思想が輸入され、さながら翻訳時代、模倣時代の観がありました。(中略)

 こうした輸入思想、輸入文芸の影響で、自然主義文学運動は頂点を迎え、一方では自我尊重、徹底個人主義の白樺文学の台頭など、新しい文芸運動が若い人のなかから起こる一方では、大逆事件をきっかけとして、思想弾圧の暗いあらしが吹き荒れ、自由思想の「冬の時代」といわれた時代でもありました。

 こうした時代の波のなかで、一番保守的であったのは、おそらく教育界と婦人界であったでしょう。 平塚(1971下:p.338)

 そんな中に、平塚らいてう(1886-1971)の『青鞜』の発刊があるのです。

 

13-3 女性たちの「断髪令」 

 女性の服装でも、時代の変わり目でした。右は『風俗画報』第240号 (明治34(1901)年11月10日発行,東陽堂)「魚がし水神祭の景况」からのものです。前方に日本髪の女性が2名いて、後方に下げ髪の若い女学生が2名います。

 男性の頭髪は、明治維新後「断髪令」により「まげ」が廃止されます。しかし女性の日本髪は、江戸時代のままでした。日本髪は、1か月も洗髪しないこともふつうで、不潔で窮屈なものでした。明治18(1885)年に「婦人束髪会」が設立されて、しだいに手間のかかる日本髪から女性たちが解放されることになります。

 右図は、明治18(1885)年10月の福田平吉編『婦人束髪問答、巻の上』の表紙です。左が「日本髪」で、右が「束髪」です。

 石井研堂(1865-1943)は『明治事物起原』全8巻(初版1908、ちくま学芸文庫版1997)という本の「第1巻」には「束髪の始め」という項があります(pp.192-198)。そこには「当時の束髪女性の比率」が書かれています。

 当時、束髪者の比例はいく割くらゐに当たれるや、拠を得ざれども21年一月、山崎直方大阪にて風俗測定をなける結果、女子89人の内、束髪はその5分の1なりし。また、20年の4月と21年の4月と、東京上野公園にて、坪井正五郎の調査比較によれば、21年の方束髪は9分増しの結果なりしという。(p.194)

 

 つまり、明治21(1888)年頃、大阪では1/5が束髪、東京では1/3が束髪

ということです。 

 その束髪も、流行する中で結い方が複雑化し、毛髪用油も多用することになり、さらなる簡素化がされました。右は、『婦人世界』明治40(1907)年7月1日号からのイラストです。「毛髪用油」の宣伝と、文中の挿絵です。

 平塚らいてうは、明治36(1903)年、お茶の水高等女学校を卒業し日本女子大学に入学します。そのときの服装について次にように書いています。

 

 髪も、いままでの幅の広いリボンを結んだおさげや、マーガレットをやめ、三つ編みにしたものを折り返して、茶や黒のリボンをかけました。お茶の水のように、日本髪を結ったり、洋服を着た人は一人も見当たらず、いったいに質素な田舎っぽい服装が多く、こまかい木綿の手織りの縞の着物に、木綿の袴の人もいました。 平塚(1971上:p.137)

 らいてうは、上流階級の女性といっていいでしょう。そんならいてう自身の髪型も、服装も和風から洋風へと変化していきます。それは自然の流れだったのでしょう。

13-4 幕末の志士たちの時代が終わる

 社会全体の変化を見るには「総理大臣の出生地の推移」を見ればいいでしょう。右の表がそれです。

 赤く表したのは、明治維新を中心となって成し遂げた藩閥(薩長土肥出身の有力者)の人々です。その人たちは、政治の世界でずっと残り続けていたのです。

 藩閥政治から初めて抜け出すのが、第19代の原敬で大正7(1918)年のことでした。その時代になると、社会全体でも、明治維新以後に生まれた人(50才以下)が中心になってきて、完全に江戸時代とは切り離されるのです。

 

 さらに、第一次世界大戦(1914年)前後になると、女性の社会進出も進みます。今まで裾まであったスカートが膝丈になり、働きやすいスタイルになったのもこの頃です。スカートが短くなったために絹のストッキングが必要となり、アメリカに大量の絹製品が輸出されるようにもなります。

 

 【女性の職業の最初】

1884 女医(荻野吟子)      1886 看護婦(桜井女学校、看護学校設立)

1890 翻訳家(若松賤子「小公子」) 

1890 速記者、電話交換手、     1894 銀行職員

1899 女優、川上歌奴(アメリカで、松井須磨子は1911)

1900 鉄道改札係、郵便局員

1901 百貨店店員(三越3名) 1908 タイピスト(日本女子商業学校,教授開始)

1910 大学生(東北帝大 3名、1901日本女子大学校は「専門学校」の認定)

1920 バスガール(東京市街自動車)

1938 女性弁護士(中田正子ら3名)   1946 女性議員

 村上信彦『日本の婦人問題』(岩波新書1978:p.59)他より井藤作成

 

歴代総理大臣の出生地

 薩長土肥,京都 ●→長州 ■→薩摩 ▲→佐賀 ◆→土佐 ▼→京都

 それ以外  ◯→東北 ◎→関東 □→中部 ▽→近畿 △→中国四国   ◇→九州

1880    1伊藤● 2黒田■ 3山縣●

1890    4松方■   5伊藤●   6松方■  7伊藤●

            8大隈▲ 9山縣●  

1900    10伊藤●  11桂●

            12西園寺▼  13桂● 

1910    14西園寺▼  15桂● 16山本■

            17大隈▲  18寺内● 19原◯ 

1920    20高橋◎ 21加藤△  22山本■

            23清浦◇  24加藤□   25若槻△  26田中●

1930    27濱口◆ 28若槻△   29犬養△ 30斎藤◯

            31岡田□ 32広田◇ 33林□ 34近衛◎

1940    35平沼△ 36阿部□ 37米内◯ 38近衛◎  39近衛◎

            40東條◎ 41小磯◎ 42鈴木▽ 43東久邇宮▼ 44幣原▽

1950    45吉田◎ 46片山▽ 47芦田▼ 48,49,50,51吉田◎

            52,53,54鳩山◎ 55石橋◎ 56,57岸●

1960    58,59,60池田△ 

1970    61,62,63佐藤●

            64,65田中□

1980    66三木△ 67福田◎ 68,69大平△

            70鈴木◯   71,72,73中曽根◎

1990    74竹下△ 75宇野▽ 

            76,77海部□ 78宮沢◎ 79細川◎ 80羽田◎

2000    81村山◇ 82,83橋本◎ 84小渕◎

            85,86森□ 87,88,89小泉◎ 

2010    90安倍◎ 91福田◎ 92麻生◇ 93鳩山◎ 94菅△

            95野田◎ 96,97,98安倍◎


 このように、1900年から始まる「不如帰の時代」は、明治・大正・昭和を経て、終戦(1945年)に向かいます。結核も、1950年代になって終息し、[子]のつく名前も現象に転じます。

 

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(14)大正の新しい女たち

 

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