(11) [◯子]出現の真犯人をだれだ
11-1 グラフの立ち上がりはいつ?
右のグラフを見てください。上の[子]のグラフ(↑)は、いつ立ち上がったのでしょう。
1890年(ア)? 1895年(イ)? 1900年(ウ)?
「[子]のグラフ」は、小学校卒業生名簿を中心に50ほどの名簿から作成しました。主に古書店で購入して収集して、データベース化しました。たとえば下は『伊勢市四郷小学校 創立百周年記念同窓会名簿』(1987百周年同窓会関係事業部)のデータをグラフにしたものです。1980年代は、多くの小学校が創立百周年を迎えたので、記念誌がたくさん作られたのです。
四郷小学校の「[◯子]のグラフ」はいつ立ち上がったでしょう。(ア)でも(イ)でも(ウ)でもなく、1910年でした。地域によって立ち上がり時期が違うようです。
ここまでに私が使った『創立百周年記念誌』のデータ(21校分)は、次の通りです。
1北海道紋別市紋別小 11福井市麻生津小
2 帯広市帯広小 12愛知県名古屋市山吹小
3秋田県湯沢市弁天小 13 春日井市春日井小
4新潟県湯之谷村大沢小 14 豊田市挙母小
5群馬県境町島小 15 鳳来町富栄小
6東京都中央区常盤小 16三重県伊勢市四郷小
7 千代田区千桜小 17 尾鷲市曽根小
8長野県松本市開智小 18大阪市八尾市南高安小
9 諏訪市高島小 19高知市三里小
10石川県鳥屋町鳥屋小 20福岡県新宮町新宮小
21 福岡市今津小
(*多くの友人から書籍をいただいた。敬称略、1,2は小出雅之、4西条善英、5森下知昭、7,15長岡清)
その21校データで、「[子]のつく女性名」のグラフは、いつ立ち上がったかを、学校別に表すと、右のようになります。
[子]のつく女性の始まりの時期は、早い地域も遅い地域もあります。しかし約半数は1900年頃に[子]が始まっています。
ここまで「[子]のつく名前」に関係したと思われる何人かの人物が登場しました。自由民権運動の女弁士「岸田俊子」、女性が学ぶことを広めた『女学雑誌』。日本人を代表して自害した「畠山勇子」。どれも「[子]のつく名前」普及に関係したように思えます。しかしどれも「決定的だ」とは思いません。
「[子]のつく名前」の流行は全国的なものです。そんな流行を引き起こす原因は、今まで述べたものだけではなく、もっと大きな1900年頃のできごとにあるように思えるのですが、いかがでしょうか。
やはり、どうしても「1900年」を掘り下げてみたくなりました。何とかして「日本全体に[子]の流行を引き起こした真犯人」を見つけたいのです。
11-2 「はうがく」って誰?
私は、やはり調査といえば「当時の新聞や雑誌など、同時代資料を見ることがいちばんいい」と思います。そこで、公立図書館の書庫に入って明治期の新聞から「真犯人探し」を始めました。しかし、『朝日新聞』『万朝報(よろずちょうほう)』などの大新聞は大量すぎて、調査をすぐにあきらめてました。
そんなとき、書庫の隅に『婦女新聞』という週刊の新聞が並んでいるのを見つけました。そのくらいなら探せそうです。
そして見つけたのが右です。「はうがく」という人が書いた「婦人の名に就て(1) (2) (3)」『婦女新聞』(明治38(1905)年6月5日、12日、20日、婦女新聞社)という記事です。その中から引用です。
......さて、わが国の婦人の名については、さしあたり研究を要する問題がある。
第一 婦人の名の下に何子と「子」をつけることについて。
第二 婦人の名に漢字を用いることの良否。
第三 婦人の名に付する敬称。
第四 未婚、既婚を分かつべき特別語等は、けだし何人もその一定の必要を感じておることであろうと思う。
(「6月5日号」より。旧漢字、旧仮名遣いは、筆者が現代表記に直した)
どうです。まさに「[子]のつく女性名」について、真正面から論じています。そして「はうがく」さんは自分の意見を述べます。
以上述べたところによって、一般に望みたき予の意見は次のごとくである。
1 『子』の字をもって、尊、美、謙等の名称から離れて、単なる婦人称となし、戸籍上の有無に係わらず、また3字名4字名であろうとも、又よし、「え」「よ」がすでに添っておろうとも、他称、自称共に『子』の字を添えること。
2 今後、女子が生まれて命名入籍する時には、必ず『子』を付して届け出ること。もしこのことを忘れて届け出たる場合には、戸籍吏より一応注意したる上、入籍の手続きをすること。
かくのごとくにして、婦人称が一定したならば、かなの名であっても、漢字名であっても、一見、直ちに婦人なることが明らかになって、いっそう便利である。 (「6月12日号」より)
「はうがく」さんは過激です。「女性全員に[子]をつけろ」というのです。1905年にこんな文章が現れたのです。「はうがく」という人はいったい誰でしょう。
婦女新聞を読む会編『婦女新聞と女性の近代』(不二出版1997)という本に「『婦女新聞』執筆者一覧」という章があります。その中に「下中芳岳(弥三郎)」という名前を見つけました。「はうがく」は漢字名だったのです。しかも「芳岳」は『婦女新聞』執筆者の中でNo.8に入る量の文章を書いているのです。下中芳岳(弥三郎)」とはいったいどういう人物なのでしょう。「下中弥三郎」(1878-1961)は、平凡社の創設者です。「婦人の名に就いて」を書いたときは27才で、『婦女新聞』の記者でした。1914年に「平凡社」を創設し、社長になります。もともと、兵庫県中部の貧しい家に生まれ、小学校の代用教員などをし、苦労の末、新聞記者になったのです。 wikipediaより。「下中弥三郎」77才
大元は朝日新聞『アサヒグラフ』1955年11月30日号
右のコピーを見てください。これは1906年創刊の月刊誌『婦人世界』(実業の日本社)の1907年11月号の記事です。懸賞に当たった女性名に全部[子]がついています。まさしく、下中の言うような状況が1907年には生まれていたのです。もちろんこの人たちの本名には[子]はついていません。「松枝子」「きくゑ子」のように本名に[子]をつけたのです。
しかし、下中の記事は1905年のことです。私が探している「1900年のできごと」にしては遅すぎます。また『婦女新聞』の発行部数は「1000部から2000部ほど」(*1)でした。そんな『婦女新聞』の記事が日本全体に影響を及ぼすとは思えません。
前に述べた『女学雑誌』(1885年創刊〜1904年、力があったのは1894年まで)の初期の発行部数は「2500部」ほど(*2)ですから、『婦女新聞』はこれにも負けています。
もう少し、「真犯人探し」を続けましょう。
(*1 前述の『婦女新聞と日本の近代』によると、「第1号は1万部刷った」もののほとんどが売れ残り、以後2号は「3千部」,3号から「2千部」「1800部」10号からは「1200部しか刷らなかった」)
(*2 野辺地清江『女性開放の源流ー巌本善治と『女学雑誌』』(1984校倉書房)p.11 「『女学雑誌』の評判はきわめて良く」「第10号頃には毎号2500部ほど印刷するようになった」)
11-3 「だれでも[子]をつけてもいい(1899年)」大口鯛二が真犯人?
下中はうがくの「婦人の名に就て」の中に、大口鯛二が1899年に書いた「婦人の名の下に付くる子の字の説」『女学雑誌』(第2回16巻)が紹介されています。これは時代がぴったりです。ひょっとしてこれが探している真犯人かも知れません。さっそく国会図書館に行って『女学雑誌』のコピーをとってきました。
そこで大口はまず
『子』の字の義につきて、質問をおくらるる会員はなはだ多し
と書き、その後、[子]の歴史的な話が書かれています。そして大口鯛二の意見が書かれています。
自他共に『子』の字を添えて苦しからず。されど、今日やんごときなき御辺りの女性には必ず『子』を添えさせらるれば、尊称のごとく聞くゆるをもて、身分なきものが『何子』と名のるは僭越のごとく思う人もあれば、決して然らず。男子の名に何彦、何麿などついうと同じ意味に添えたるものなれば、上下貴賎を通じて、何人が自己の名とし、またわが子の名に命ずるとも、すこしもはばかるところなしと知るべし。
「[子]はだれがつけても、名乗ってもいい」と言うのです。大口鯛二(1864-1920)は、宮中に勤める歌人(*1)です。明治天皇が死んだ後に、天皇の歌集を編纂したほどの人です。その鯛二が29才のときに書いた文章が上です。
『女学講義』とはどんな雑誌でしょう。それは、学問をしたい人のための通信教育の雑誌です。講師陣は、天皇に近い人ばかりで、当時は非常に権威があった雑誌だったことでしょう。この雑誌は、いちばん多いときで5000人くらいの読者がありました(*2)。
1900年[子]のグラフが立ち上がったのは、大口鯛二の記事の影響でしょうか(*3)。いや、5000人の読者が日本全体の世論を動かすことができたでしょうか。やはり、それは少なすぎます。
*1 『女学講義』創刊第1号(1895.11)に、大口鯛二は「御歌所勤務」とある。
*2 『女学講義』第2号第16巻(1899.2)に「現在会員数。府県別」という表があり、その総数は約5000人である。
*3 1900年当時の女性雑誌で、ある程度の勢力を持っていたのは6誌である。『女学雑誌』『女学講義』以外に、『女鑑(じょかん)』(国光社)→庶民的な雑誌、『婦人新報』(日本キリスト教矯風会)、『婦人雑誌』(浄土真宗関係の雑誌)『家族雑誌』(民友社)の4誌である。『主婦の友』など現在まで出版が続く雑誌が現れるのは1905年以降である。
11-4 「名付けは、だれかにあこがれてするものだ」
私は、友人の多久和さんと「子のつく名前」について議論を重ねていました。彼は、娘を持っていて名付けの経験があります。そんな彼が次のような手紙をくれました。
たしかに、下中弥三郎の評論(1905)や『女学講義』の大口鯛二は、それなりの影響はあったと思う。
しかし、名前は人に言われてつけるものではなく、自立したかっこいい女性にあこがれてつけるものだ。
その代表例が与謝野晶子ではないか。(1998.8.4「多久和俊明私信」より)
多久和さんが着目したのは与謝野晶子(1878-1942、本名しょう)です。次の2つは、彼女の著作として特に有名です。
1901年 歌集『みだれ髪』
1904年 『明星』9月号に「君死にたもうことなかれ」
たしかに与謝野晶子は、名付け役の父母たちに影響力があったことでしょう。
しかし、もっと他にも「あこがれ」の女性作家がいるかも知れません。調べてみることにしました。『国立国会図書館明治期刊行図書目録』(1971-76)という便利な本があったので、そこから「明治初期の女性著者」をリストアップしてみました。右がそれです。
これを見ると、1900年から「[子]のつく名前の女性著者」が増えています。そこから何人か挙げてみます。
税所敦子(1825-1900,本名きよ?)...宮中の女官、歌人
下田歌子(1854-1936,本名せき)...宮中の女官、歌人、華族女学校校長
若松賎子(1864-1896,本名かし)...翻訳家、『少公子』
津田梅子(1864-1929,本名むめ)...女子教育
また著者ではありませんが、有名人の[◯子]さんには
荻野吟子(1851-1913,本名ぎん)...日本初の女医
これらの人が、日本中の世論を動かして[子]のつく名前のブームが始まったのでしょうか。私にはそうは思えません。名付け親たちの「あこがれの女性」となるには、歌人の与謝野晶子では弱すぎます。
ともかく、1900年前後には[子]のつく名前に関して事件がいろいろありました。津田うめ(むめ)が、戸籍上の名前を「梅子」にするのも1902年のこと(*)です。
これは、次のように考えたらどうでしょう。
「[子]のつく名前は、かっこよくて一般大衆のあこがれだった。しかし[子]は華族など上流階級の女性だけがつけるもので、一般庶民はつけられなかった。1900年頃に、大口鯛二や下中弥三郎が「だれでもつけていい」と言った。そこに「あこがれの女性」が現れた。「待ってました」とばかりに、それを見て一般大衆も[子]をつけ始めた」
そんな「あこがれの女性」が本当にいたのでしょうか。私には、その[◯子さん]に心当たりがあるのです。次章で、そのお話をしましょう。
(*津田塾大学編『津田梅子文書』(1980津田塾大学)p.567「むめを漢字の梅子と訂正したのは、この年(1902)の11月のことであった」津田むめは、親たちの戸籍に入っていたのを自分たちだけの戸籍にした。そのときに名前も「梅子」にした)
11-5 「高等女学校」できる
戦前の学校制度では、男子には5年間の「中学校」が設置されていました。それは男子だけのもので、女子は原則4年間の「高等女学校」に進学しました。『女学雑誌』が創刊された当時(1885-87年)の「高等女学校」の在学者数は次の通りです。比較のため、「中学校」在学者数も掲げました。
1882 1883 1884 1885 1886 1887
「高等女学校」学校数 5校 7校 9校 9校 7校 18校
「高等女学校」在学生数 286名 450名 590名 616名 898名 2363名 ←すべて女子
(「中学校」在学生数 13088名 14763名 15100名 14084名 10300名 10177名) ←すべて男子
『日本長期統計総覧 第5巻』(日本統計協会1988)による
女子のための高等教育は、やっとこの時期に始まったと言っていいでしょう。
「高等女学校」は1882年にできました。「女子師範学校」に併設された「付属高等女学校」に始まります。それ以前は、クリスチャン学校を中心に、女子教育を行う「女学校」はありましたが、初等教育だけだったり、中等教育も行なっていたりして、あいまいでした。1995年になって「高等女学校規定」が出されて、しっかり規定されます。
当時の日本の事情は、保護者にとっての女子に関する教育への関心が低く、「女子教育」全体の構築が急務でした。1993年の「文部省訓令第8号 女子教育に関する件」から、それがわかります。
「現在学齢児童100人中、就学者は50人強にして、その中、女子はわずか15人強に過ぎず」
つまり、小学校に通う子は、女子は100人中15人しかいなかった(男子は100人中70人)というのです。
右のグラフを見てください。男子の「中学校」の在学者数に比べて、女子の「高等女学校」の在学者数はずっと低いままです。
しかし、「高等女学校」のグラフをよく見てみると、1895年頃からグラフは立ち上がります。その勢いは、男子の「中学校」の迫る勢いです。
そんな時代に『女学雑誌』は刊行され、二葉亭四迷の『浮雲』は発表されたのです。そして「女学生たち」には名前に[子]がつけられ、庶民にとっても憧れの存在になっていくのです。
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